ソクラテスの哲学

ソクラテスの哲学

ソクラテスの哲学を考えます。
その教えの中心にあるものは、人は真理のすべてを知る事は出来難いということ(無知)を知るべきである(無知の知)というものです。 
さらには人間の生死の深い考察にいたります。

こちらでは、ソクラテスが裁判の中において、自らを弁明した言葉を、見てゆくこととします。
その言葉の中に、ソクラテスの考えていた哲学(真理、知恵)が表現されています。

                                           
「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)仔細にその人物―特に名前をあげて言う必要もないでしょう。
それは政界の人だったのですが―その人を相手に問答しながら観察しているうちに、次のような経験をしたのです。
つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。
それで、私は彼にそうではないという事を説明しようと努めたのです。
その結果私は彼にもまたその場にいた多くの人々にも憎まれる事になったのです。
 しかし私は、一人になって考えたのです。彼より私のほうが知恵がある。なぜなら二人とも善や美(真理)についてよく知らないと思われるが、彼は知らないのに知っていると思っているが、私は知らないので、知らないと思っている。その点で私のほうが少し彼より知恵が優れていると思う。
また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
 (中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」

 ソクラテスの弁明より
 ソクラテスの説く知とは単なる知識ではなく善や美と表現されていることからも、真実(善や美をも含む真理)を理解する能力(知恵)を表すでしょう。
ここでソクラテスは、多くの人に知恵のある人と思われている政界の人を訪ねてみた時の事を話しています。
ソクラテスにしてみると、その政界の人は他の人に思われているほど知恵がないと思えたと述べています。
そしてその事(彼はそれほど知恵がない事)を説明しようと努めたとあります。
その結果ソクラテスはその政界の人からもまたその場にいた多くの人々からも憎まれる事になったと述べています。
このようにしてソクラテスを憎む人が増える事により、彼が裁判にかけられる下地が出来上がっていったのでしょう。
政界の人や他の多くの人々が考える知恵と、ソクラテスが何より大切なものと考える知恵とは、その意味合いが大きく異なっていたのです。
ソクラテスが私欲からではなく、ある使命感から説いた話が、当時の人々に正しく理解されなかった事を物語っています。
政界の人は政界の事についての知識には優れている、なのに彼と他の多くの人々は知恵にも優れていると思い込んでいる。
そこをソクラテスは指摘したのです。
さらには、詩人(文学者)にも同じ結果をうけます。
また手工者(技芸家)も同じでした。
それぞれが専門とする業(技芸)に優れている人は、他の重大な事柄(知恵)についても優れていると思い込んでいた、とソクラテスは述べています。
現代においても、政界、財界、学界、文学界、芸能界、スポーツ界等々各界それぞれの専門分野で特に優れている人(名声ある人)はたくさんいますが、ソクラテスの指摘は同じように生きているのではないでしょうか。
ソクラテスは、名声のある人々より、尊敬されることの少ない人々のほうがむしろ思慮(知恵)に優れていると思えたと述べています。
それは、知らないのに知っていると思っている人より、
知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れているというソクラテスの言葉にもよく表れています。

 「諸君、死を恐れるという事は、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。
それは知らない事を知っていると信じていることになるのです。
もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです。
しかし人間は死を最大の悪であると決めてかかって恐れているのです。
これこそ知らないのに知っていると信ずる事、無知ではないでしょうか。
それで私が少しでも知恵があると自ら主張するとすれば、私はあの世のことについてはよく知らないから、その通りよく知らないと思っているという点をあげるでしょう。」

以上ソクラテスの弁明より  
ソクラテスは人間の死について、またあの世のことについてよく知らないのであれば、その通りよく知らないと思うことのほうが良い(知恵がある)と言っています。
ソクラテス自身は、あの世のことについてよく知らないから、その通りよく知らないと思っていると述べています。
ソクラテス自身が少しでも知恵があると主張するとすれば、そのことをあげると言っています。
そして、それこそが、ソクラテスの説いた無知の知、なのです。
人間の死が、もしかすると、最大の幸福であるかもしれない、とソクラテスは考えていると言っています。
しかし多くの人々は、知らないのに知っている(死は誰にとっても最大の悪)と信じている、それが無知であるとしています。
ソクラテスの弁明は、人間はたとえ真理のすべてを知ることができ難くても大きな希望を持つことができると主張する事になるのです。
それは現在まで、2,400年の時を越えて、私たちにも呼びかけているのです。
これから後の弁明は、刑の確定後、特に最後の言葉として、ソクラテスに無罪の投票をした人々に対して話されたものです。

 「死は一種の幸福であるという希望には有力な理由があるのです。
つまり死は次の二つの中のいずれかであるはずなのです。
すなわち死ぬとはまったくの虚無(何も無い状態)に帰る事を意味し、死者は何ものについても何の感覚も持たなくなるのか。
それとも、人の言うごとく、それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転であるのか。
またもしそれがすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚くべき良いもの(利得)といえるでしょう。
というのは、思うに、もし人が夢一つさえ見ないほど熟睡した夜を選び出して、これをその生涯中の他の多くの夜や日と比較してみて、
そしてよく考えた後、その生涯の幾日幾夜をこの一夜よりさらに好くさらに快く過ごしたかを告げなければならないとすれば、
思うに、単に普通人のみならずペルシャ大王といえども、それは容易に数え得るほどしかないことを発見するでしょう。
それで死がもしそのようなものであるなら、私はこれを、一つの利得であるといえるでしょう。
その時には永遠はただの一夜よりも長くはみえないでしょう。
これに反して死はこの世からあの世への遍歴の一種であって、また人の言う通りに実際すべての死者がそこに住んでいるのならば、裁判官諸君よ、これより大きな幸福があり得るでしょうか。」

以上ソクラテスの弁明より  
ソクラテスの死に対する考え方の基本が示されています。
ソクラテス自身がなぜ、死は一種の幸福である、という希望を持ち得るか。
それは、彼によれば、死は次の二つの内の、どちらかであるはずである。
一つは死はまったくの虚無に帰する。
もう一つは、死は霊魂の移転である。
ソクラテスは、死が二つの内のどちらであっても人々にとっては良いものであると言明しています。
彼によれば、
もしも死が、夢一つさえ見ないほどに、熟睡した夜の眠りに等しいものであるなら、
この世の生涯の、苦しみなどからの解放という驚くべき良いもの(利得)と言っています。
またもしも死が、この世からあの世への遍歴の一種であるなら、
これより大きな幸福はあり得ないと述べています。
実際においては、ソクラテスは霊魂の不滅を強く信じており、
そこに大きな希望を持っていることが明らかになります。

 「もしこれが本当であるならば、少なくとも私は幾度死んでもかまわない。
あの世における生活は私にとっては特に驚嘆すべきものであろう。」
「最も重要な事は、あの世でもこの世と同じように、人々を試問したり吟味したりして、その中の誰が賢者であるか、また誰が賢者顔をしながら実際そうではないかを確かめる事を自分の仕事(業)として暮らし得るだろうということである。」
「きっとそこでは、何人もそのために死刑に処せられるようなことはあるまい。
何となれば、あの世の人達は他の点においてもこの世の人達よりは幸福であるのみならず、はたして人のいうところが本当ならば、またとこしえに不死でもあるだろうから。」
「諸君もまた楽しき希望をもって死に面し、そして、この一事をこそ真理と認めることが必要である。
それは、善人に対しては、生前にも死後にもいかなる禍害も起こり得ないこと、また神々も、決して彼の事を忘れることがないということである。
今私に降りかかって来たことなども、決して偶然の仕業ではない。」

以上ソクラテスの弁明より  
ソクラテスは、善人(正しく生きた人)にとっては、生前も死後も、真の意味での悪い事(禍害)は起こりえないこと、神もその人のことを忘れる事がない、その事を真理と認める事が必要であると述べています。
そして、ソクラテスに降りかかって来た今回の一連の出来事も、けっして偶然の仕業ではないと言い切っているのです。
ソクラテスは最後まで正しく生き抜きました。
今回の死も決してソクラテス自ら望んだものではありませんでした。
自ら死ぬ事(自殺)についてはソクラテスは良くない事と言っていました。
ソクラテスは善人として正しく生きる事を人々にも説き、自らも実践していました。
この時のソクラテスはそれまで真理に則して生きてきた自分が、避け難い宣告を受けた死に面して楽しき希望を持っていることを語っているのです。
この後ソクラテスの弁明は最後のあいさつを迎えるのです。
 「私としては、私に有罪を宣告した人々に対しても、また私の告発者に対しても、少しも憤りを抱いてはいない。
もっとも、彼らが私に有罪を宣告したり、告発したりしたのは、私に害を加えんとしたのである。
これが彼ら(告発者、有罪投票者)の非難に値するゆえんである。
それでもなお一つ彼らに頼んでおきたいことがある。
諸君、他日私の息子たちが成人した暁には、彼ら(息子たち)を叱責して、私が諸君を悩ましたと同じように彼らを悩ましていただきたい。
いやしくも彼らが徳よりも以上に蓄財その他の事を念頭に置くように見えたならば。
またもし彼らがそうでもないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしたならば、
そのとき諸君は私が諸君にしたと同様に彼らを非難して、彼らは人間の追求すべきものを追及せず、何の価値もないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしていると言ってやっていただきたい。
諸君がもしそれをしてくれるならば、その時、私自身も私の息子たちも、諸君から正当の取扱いを受けたというべきである。
しかしもう去るべき時が来た―私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。
もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出会うか、それは神より外に誰も知る者がない。」
以上ソクラテスの弁明より
ソクラテスは、ソクラテスを有罪と宣告した人々に、またソクラテスの告発者に対しても少しも憤りを抱いていない事を述べています。
ソクラテスは、彼の息子たちに対してしてほしい事は、自分のしてきた事と同じ事であると言っています。
その内容は、(徳よりも蓄財その他の事を念頭におくことを指摘《叱責》する、真理を知らないのに知っているような顔をすることを指摘《非難》する)というものです。
その言葉は、ソクラテス自身がアテナイの多くの人々を正当に取り扱った真実をも示しているのです。
それは真の意味で、人々から罰せられるべきことではなく、賞賛されるべきことであったのですが、多くの人々の理解は得られませんでした。
ソクラテスは,最後まで真実(真理)の発言者であり続けました。
ソクラテスはこのような形で弁明の最後のあいさつを終えているのです。

   

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