ソクラテスの言葉

ソクラテスの言葉

 「しかるに私は、未だかつて何人の師にもなりはしなかった。
ただ私は、私が自分の使命を果さんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもこれを拒むようなことはしなかったのである。」
以上ソクラテスの弁明より抜粋
ソクラテスは相手が望むなら、だれに対しても自分の考えを自分の言葉で話してきかせたのです。
ソクラテスは何人の師にもなりはしなかったと言っていますが、ソクラテスの説く知恵の追求について、耳を傾け心を通わせた人々(弟子と目される人々、友人等)はソクラテスの近くにいました。
ソクラテスは、人の師になろうと考えていたのではない事を、はっきりと述べています。
まして、弟子を増やそうとして、自分の考えを語っていたのではありませんでした。
ソクラテスは、それを語る事が、自分の使命と考え、それを果たそうとしていたのです。

ソクラテスが告発される頃には弟子と目される人々(特に青年達)が増えはじめていました。
それゆえにこそ、ソクラテスの言動に対して、神々を信ぜず新しい神を導入し、青年を腐敗せしめた、との罪状が付けられることになりました。
このような罪状については、それが如何に根拠の無いものかソクラテスの言葉を知る事によりはっきりします。
ソクラテスは多くの名声ある人々に対して、自分の信じる知恵(哲学、真理)を説きました。
その相手の無知(真の知恵に対する)を指摘することにより、憎まれる事も増えていきました。
ソクラテスの説く哲学(真理)を理解できない人々によって、ソクラテスは裁判において死刑を宣告されることになりました。

賢明な弟子であったプラトンは、その師ソクラテスの裁判における言動、死刑確定後の言動、そしてその死を通して、真のソクラテスを知る事になりました
その結果として、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイドン」等の一連のソクラテス(哲学、思想)を示す著作を書き上げる事になったのです。
その裁判がどのようなものであったのか、ソクラテスはどのような態度で臨み、何を述べたのかについては「ソクラテスの弁明」において明らかになっています。

 「よき友よ、出来る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、知見や真理やまた自分の霊魂を出来る限り善くすることについては、少しも気にもかけず、心を用いもしないことを、君は恥ずかしいこと(恥辱)とは思わないのか。」
裁判にかけられたソクラテスは、法廷において次のように述べています。
「もしも条件を付けて放免されても、アテナイ人諸君に対して息と力の続く限り、知恵を愛求したり、忠告したり、いかなる人に逢っても常にこのように指摘しつつ、いつもの調子で話かける事をやめないであろう。」
ソクラテスは裁判の弁明の中で述べているように、アテナイの人々に対してすでに長い年月(このときすでにソクラテスは70歳をこえていた)、話しかけ忠告し,指摘する生活を続けてきていたのです。
したがって、ソクラテスにしてみると、今回まわりの事情(政治的、社会的等)により、告発者が現れ、彼を告発したという事のために、裁判に引き出されたに過ぎなかったのです。

したがってソクラテスの言動(哲学、思想、真理)が原因で裁判にかけられたのであれば、結果としてどのような刑罰をうけようとも、彼自身のこれまでの言動(哲学、思想、真理)を変えるようなことは考えもつかないことであったのです。

 「私は諸君に向かって一切の真実を告げた。(中略)この使命は神託や夢想やその他およそ神意が人間に何事かを命ずるあらゆる方法によって神から授けられたのである。」
 「私は木や石ではなく、人間より生まれたものであるから私にも家族もあれば息子もいる。」

以上ソクラテスの弁明より   
ソクラテス自身がある使命を持って(それを果たそうと)生きてきたことを表明しています。
ソクラテスは、人々に対して一切の真実を告げた、とはっきりと言い切っています。
この言葉は、ソクラテスが真実というものを、何より大切なものと認識していたことを表しています。
その真実を告げるという使命は、あらゆる方法によって、神から授けられたものであると言っています。
そして、彼自身については、普通の人間として家族を持ち子供もある事を述べています。

ソクラテスは、当時他の多くの人がしたように、家族や子供を裁判に連れてきて、同情を得る等の行いは思いもつかないと述べています。
まして、裁判の結果を恐れて、これまでの自分の言動(哲学、思想、真理)に反するような事を言ったり行ったりすることはあり得ない、とはっきりと言っています。

ソクラテスのこの裁判に臨んでの態度や言動が、裁判結果(死刑)に少なからず影響した可能性は否定できません。
それに対してソクラテスは誰を恨むこともなく、まさに自分の使命の一つでもあるかのように、自若として受け入れているようにみえます
そしてこの出来事が、ソクラテスをその後現在に至るまで、世界中の人々に知らしめることになるのです。
結果として、この一連の裁判、死刑判決、獄舎での生活、刑死を通して、ソクラテスの弟子プラトンの目覚め(真実のソクラテス再確認)を生みました。
そして、プラトンの著述へと進んだのです。

プラトンは優れた文学者でありましたが、それ以上に、プラトンがソクラテスの真理追究の真の弟子となったことが重要なことに思われます。
プラトンの著作成立後今日まで、世界中の多くの人々にソクラテスの哲学、思想が読みつがれることとなっているのです。


ソクラテスの裁判(死刑確定)後の言動は、「クリトン」、「パイドン」により詳しく知る事ができます。

「クリトン」においては、脱獄(当時不法ではあっても、可能な状況であった)を勧める友人クリトンに対して、それ(不正、不法なことをして≪これまでの自分の言動ー哲学、思想、真理ーに反することをして≫他国において、この世の命をわずかな期間引き延ばす事)を否定する(あり得ないとする)ソクラテスの考えが述べられています。

ソクラテスはその信念を語っています。
その最も(一番)大切なものは、単に生きることではなく善く(正しく)生きる事であると強調しています。
どんな場合にも人は正しくない事(不正)を行ってはならないと言います。
そして、たとえ殺されたりひどいめ(禍害)にあったりしても、それは自らが不正を行う事よりもよほどましな事であると言います。
ゆえにたとえ禍害(不正)を受けた時でさえも、報復したり禍害(不正)を行ったりしてはならない、仕返しをしてはならないと言うのです。
ソクラテスはこの信念を抱くことができる者はきわめて少数であるともクリトンに述べています。

人に対し常に正しい(善い)事をする、というソクラテスのこの信念は彼の信じた神(哲学、真理)に則した行為を意味していたのです。
クリトンに対しても、クリトンが以前から認めていたこの信念を確認するようにと説得し、その信念に対するクリトンの賛同を得ているのです。
そしてソクラテスに起きた一連の出来事に対して、ソクラテスはその信念に従う道を選びました。
ソクラテスにとって、それが人の正義(国法)と天の正義(神の真理、哲学)とに適う道であったのです。
ソクラテスにとってこの選択は、どちらかを迷いつつ選ぶというものではなかったのです。
このクリトンとの対話の最後にソクラテスは神がそちら(正しい道)に導いてくださる、と述べています。


「パイドン」においては、死の直前のソクラテスの言葉が、その限られた時間の中で、限られた友人や弟子に向かって述べられており、ソクラテスの哲学、思想を知る上で貴重な資料となっています。

以降はそのソクラテスの最後の言葉を著したパイドンより
ソクラテスの言葉を探求してゆくこととします。
なおソクラテスの弁明については、次のページ「ソクラテスの哲学」にて再度取り上げます。

 「ねえ君たち、人々が快楽と呼んでいるものは、何とも妙なもののようだね。
正反対と思われる苦痛との関係だが、この二つは人に同時にはやってこないが、人が一方をつかまえると、きっともう一方もつかまされる。
いましめ(足かせ)のおかげで足が痛かったが、今度は快さが後からやってきたようだ。」

以上パイドンより抜粋
 今日、刑が執行されると申し渡され、いましめ(足かせ)をはずされたばかりのソクラテスの言葉です。
これから獄舎内におけるソクラテスの最後の弁明(弟子、友人等へ)が始まるのです。
こちらでのソクラテスの言葉は、自覚した自分の死の直前の言葉であり、ソクラテスがその生涯をかけて考えてきた事が、真剣に語られているのです。
そこには生死に対するソクラテスの考えが鮮やかに表現されています

「神秘宗教の教義によると、人間は一種の牢獄にいるのであって、そこから自分を解放したり、逃げ出したりしてはならないというのだが、これはどうも深遠な教えで、私には容易なことでは理解し難いもののように思われる。
だが、もし神々がいてわれわれを見守っていてわれわれは神々の持ち物のひとつであるとする。
それでもし君の持ち物の家畜が君が死ねと言わないのに、勝手に自分で死のうとしたら、君だってきっとそれに対して腹を立て、何か罰する手段があれば罰を与えはしないかね。

だからおそらくその意味で、今の私の場合のように、神様が何かそうせざるを得なくさせて下さるまでは、自殺してはいけないというのは、決して理屈にあわないことではない。」

以上パイドンより
この時ソクラテスは神秘宗教の教えとして、人間はこの世に一種の囚われ人としているのではないかとの考えを述べています。
しかしそれはソクラテス自身簡単には理解し難いとも述べていますが、その後の話の進め方をみると、その教えについてソクラテスは相当に納得(理解)しているのではないかと思われます

さらには自ら望んで死ぬということはいけない(良くない)というソクラテスの考えが示されます。
今回のソクラテスの死刑に至る経過については、決してソクラテス自身が自ら望んだものではなく、(神様によって)何かそうせざるを得なくされたものであると、述べています。
ソクラテスは自殺については、自殺してはいけないと、はっきりと否定しています。

人間はこの世にある種の囚われ人としているのでは、そして自らをそこから解放したり逃げ出したりしてはいけないのでは、とのソクラテスの言葉から連想されるものがあります。
それは因果応報と表現される壮大な思想の一部を示しているでしょう。
この世にいる我々一人一人の真の命が、まったくの偶然の産物というようなものではなく、何らかの使命あるいは課題といえるようなものを持って生きているということになります。

その考え方に従うと、その人生の途中で、自らを解放したり逃げ出したり(自殺)すると、その人は何らかの使命あるいは課題を果たしていないことになります。
自ら勝手に放棄することが許されないとすれば、その人は何らかの償い(報い)を受ける事になるでしょう。
ソクラテスは何らかの罰と表現していますが、その真の命は少なくとも逃げ出す(自殺する)以前に経験した苦悩や悲哀等を再度体験することを時と所を変えて強いられることになるでしょう。

それ(自殺)は見方をかえると、それまでの人生におけるすべての協力者や縁者等の努力、忍耐、友情、愛情等の善い事柄に向けても、その恩に報いていないことにもつながるでしょう。

ソクラテスは自殺してはいけないということは理屈に合うことである、と言っています。
これから魂と肉体という事等についてもソクラテスの考えが語られるのです。
「魂が不死であれば、それはまた不滅でもあるのではないか。」

「もし魂が不死であるなら、我々が人生とよぶこの期間だけでなく、全期間(永遠)にわたって、魂の世話をしなくてはならない。
そしてもし人がその世話を怠るなら、その危険はいまや恐ろしいものに思われるだろう。
なぜなら、もし死がすべてからの解放であるのなら、悪しき人々にとって、死ねば肉体から解放されるだけでなく、魂もろとも自分の悪もなくなってしまうのだから、それは天の恵みともいうべきものだったろう。

しかしいまや、魂が不死であることが明らかな以上、魂にとって、できるだけ優れた賢いものとなる以外に、悪から逃れる事も救われる事もできないであろう。
魂がハデスへゆくにあたってもってゆくものは、ただ教育と教養だけであり、これらのものこそあの世への旅の門出から直ちに、死者にとって最大の利益ともまた災いともなると言い伝えられているのだ。」

以上パイドンより
我々この世の人間が魂について語るとき、通常それ(魂)は肉体の死と共に滅びるものではないと前提されています。
従って魂があるとするなら、この世の生死の見方において、それ(魂)は不死の存在であると言えるでしょう。

こちらでは人間の魂についてのソクラテスの考えが示されています。
どのような事が魂にとって大切な事であるのか、またよくない事であるのかについてのソクラテスの考えが語られるのです。
ソクラテスは魂の世話(正しく成長させること)を怠ると、その危険は恐ろしいものに思われると述べています。

ソクラテスは死ぬ事によって人間のすべてが無になってしまうのなら、それはある意味では解放される事であると述べています。
しかし、肉体は死んでも魂が生き続けると、死は解放を意味しなくなるのです。

特に、悪しき人々にとってはその悪から逃れること救われることは容易ではないと言っています。
そのためには、この世に生きている内に魂にとってできるだけ優れた賢いものとなる意外に道はないと述べています。
そして、人間が死んであの世へ持ってゆくものは魂にとっての教育と教養だけである。
それは最大の利益ともまた災いともなると言っています。
魂にとっての正しい教育と教養は利益となり、魂にとっての正しくない(悪い)教育と教養は災いとなる、それは旅の門出(死)の瞬間から直ちに死者を左右(決定ずけ)する、と言っています。
この言葉は人がこの世を如何に生きるべきかについて大切なものを示しているでしょう。

ソクラテスは魂を成長させる(優れた賢いものとなる)ことを最も必要な事と言っているのです(ソクラテスはそれを魂の世話とも言い表しています)。
そしてその為には、魂を正しく成長させる(徳と知恵を得る)ための教育と教養が必要であると表現しているのです。

これを言い換えてみると、魂を正しく育て養うための真実の教えが必要である、そしてその教えの実践によって自分の魂を優れた賢いものとする事が大切であるということになるでしょう。
ソクラテスはそれ以外には、真に魂が救われる道はないと言っているのです。

この後ソクラテスは通常人間が死んで行くことになるハデスの様子についても語り続けるのです。

「その言い伝えとはこうなのだ。
各人が死ぬと、生きているうちから彼の運命をつかさどってきたそれぞれのダイモンが、案内をして、あるところへつれてゆき、
そこで集まった人々は裁判をうけて、彼等をこの世からあの世へつれてゆく役を与えられている、かの案内人と一緒にハデスへおもむかなければならない。

彼等がハデスで定められた運命をうけ、必要な期間だけそこにとどまると、
別の案内人がふたたび彼等をこの世へつれもどすのだ、長い数多くの周期をくりかえしたあとでね。
実際この旅は二またや三またに分かれるところが沢山あるようだ。(中略)

肉体に執着する魂の方は、前にも言ったように、肉体と可視的世界の周りを長い間うろつき、大いに反抗し、大いに苦しんだ後で、やっと無理やりに、定められたダイモンに導かれて去ってゆく。
ほかの魂たちがいる場所へやってくると、不浄な魂、何か汚れたことをした魂、たとえば不正の血を流したとか、そのほかそのような、それと同じたぐいの魂の仕業である、同じたぐいの罪を犯した魂は、他のすべての魂がそれを避け忌み嫌って、誰も道づれにも案内人にもなろうとしてくれないので、たった一人で途方にくれながら、一定の時が過ぎるまでさまよい歩かなければならない。
そしてその時がくると、無理にそういう魂にふさわしい住家へつれてゆかれる。

他方、清らかに節度ある生活を送った魂は、神々がその道づれとなり案内者となってくれて、それぞれ自分にふさわしい場所に住むことになる。
 ところで、その大地には多くのすばらしい場所があり、そして大地そのものは、その性質も大きさも、普通大地について語る人々が考えているようなものではない、ある人が私を納得させたところによるとね。」

以上パイドンより
ソクラテスは、この世からあの世へ連れていかれ、あの世からこの世へ連れ戻されるという表現で生死を繰り返す様子(輪廻再生)を語っています。
それをソクラテスは旅という言葉で表していますが、その旅の途中には幾つかに分かれる所がある、それはその人(魂)に応じて幾つも(沢山)の場所が用意されていることを表しているでしょう。

またこの世の肉体に執着する魂が苦しむ様子もみられます。
ソクラテスは言い伝えとことわりながらも、魂がその生き方等について一種の裁判を受ける事になるといっています
不浄な魂にはそれにふさわしい場所があり、そこに行かなければならない。

清らかな生活を送った清らかな魂は、それにふさわし場所に住むようになる。
そのすばらしい場所は普通、人が考えているようなものではない(推論の域を越えている)、それはソクラテスが納得したものである、と述べています。
その後もソクラテスはあの世の世界について語り続けるのです。

「かの天上の世界のものは、われわれのところのものよりも、なおはるかにすぐれているのだ。
だからもしここで物語を語ってもよければ、大地の上、天の下なる世界がどのようなものであるかということは、たしかに聞くに価することだろう。」


ソクラテスは、大地の上、天の下(天の国の下)なる世界、という表現で、通常の人が、その人に相応しい場所として行くことになるその世界の事を語ります。
その世界についてソクラテスはわれわれの世界のものよりもはるかに優れていると表現しています。特にこの世との比較においてのその美しさが様々に表現されるのです。

「われわれの世界の色、絵描きたちの使う色は、いわばそれらの色の見本に過ぎない。
そこでは、大地全体がこのような色どりをもっていて、しかもそれらは、この世界のものよりはるかに鮮やかで純粋である。
ある部分はおどろくばかり美しい赤紫で、ある部分は金色であり、白い部分は雪よりも白く、そのほか同様にさまざまの色からなり、 しかもそれらの色は、われわれの色、われわれの見るものより、数も多く、美しさもまさっている。
(中略)
そして、このような世界にあっては、そこに育つものは、木々も花々も果実も、そこに育つにふさわしいものであり、そしてまた山々もそうであり、 そこに在る石も、それにふさわしいなめらかさと透明さと一層美しい色とを持っている。
この世の中で珍重される宝石等は、すべてそのかけらにすぎない。
あちらでは、すべてがこのような宝石のようである。
しかももっと美しいのだ。」

以上パイドンより
ここではあの世の世界の鮮やかさ、純粋さ、特にその美しさが語られています。
ソクラテスはその世界の色について、われわれの知っている物(色)よりは数も多く、美しさも優れていると強調しています。
そしてそこにあるものは、木も花も果実もあらゆるものがそこに相応しく美しく優れたものであると述べています。

その世界のものとは、われわれの今住むこの世界のものとは性質においても異質のものであるでしょう。
ソクラテスはその世界にあるものの性質を表すために、その世界に相応しいなめらかさ、透明さ、より美しい色と表現しています。
この後もソクラテスはその世界について語り続けるのです。

「さて大地の構造は以上のようであるが、死んだ人々は、ダイモン(守護の霊)がそれぞれをつれてゆく場所へやってくると、先ず第一に、美しく敬虔に生きてきたひとびとも、そうでないひとたちも、裁判をうけるのだ。

そして、普通に生きてきたと判定された人々は、彼らのために定められた舟に乗って、彼らに用意された場所に住み、浄められ、もし誰かが何か罪を犯していれば、罰を受けてこれを許され、善行に対しては、それぞれがそれに相応しいほうびを受ける。

だが犯した罪が大きいため、矯正し難いと判定された者たちは、彼らに相応しい運命によって入れられた場所から出ることができない。
また矯正可能だが重大である過ちを犯した、と判定された者たちは、自分が害を加えた人々に許しを乞い、受け入れてもらえるまで、その場所で苦しみを受け続けてやむことがない。
なぜなら、これが裁判官によって、彼らに与えられた刑罰なのだから。

最後に、特に敬けんに生きたと判定された者たち、彼らは丁度牢獄から解放されるように、この地上の場所から解放され、自由になり、 高きにある清らかな住家に至って、大地の上に住むようになる。
そして彼ら自身のうち、特に哲学によって充分に身を浄めた人々は、以後はまったく肉体なしに生き、ほかの人々よりいっそう美しい住家に至るのだ。
その住家が、どのようなものであるかを明らかにすることは、容易なことではないし、今はもうその時間もない。

しかし、今まで述べてきたようなわけで、われわれはこの人生において、徳と知恵とにあずかるために、出来るだけのことをしなければならないのだ。
なぜなら、報われるところはすばらしく、希望は大きなものがあるのだから。」

以上パイドンより
ソクラテスは、地上の場所から解放されることについて、自由になると表現しています。
ソクラテスは、特に敬虔に生きて解放された人々のうち、さらに特に哲学(真理に基づく知恵)によって、充分に自身を浄めた(清めた)人々は、以後はまったく肉体なし(身体なしとは言っていません)に生きると表現しています。

ここにはソクラテスによって、地上に生きている人間の究極の目標が表現されています。
ここでの、まったく肉体なしにとの表現は、この現象界(地上を含む)の輪廻から離脱し以後は肉体(老、病、死)上に生まれることがなくなった状態で生きる事を意味しているでしょう。
肉体上(現象界)に生まれることがなくなった命は、永遠の命の世界に(そこに相応しい形(身体)で)生きる(住む)ことになるでしょう。
ソクラテスは、それらの人々は、よりいっそう美しい住家(永遠の命の世界)に至ると言っています。
そして、その住家(永遠の命の世界)を明らかに(説明)することは、容易な事ではないとも言っています。

ソクラテスは、われわれがこの地上の人生で、出来るだけの努力をしなければならない大切なことを、こう表現しています。
徳と知恵とにあずかる(得る、体得する)ために、出来るだけのことをしなければならない。
その結果報われるところはすばらしく、希望は大きなものがあると言っています。

「ところで、これらのことが、私の述べたとおりだと言い切ることは、良識ある人間にふさわしいことではあるまい。
しかし、少なくとも魂の不死が明らかな限り、われわれの魂とその住家とについて、こういった、あるいは何かこれに類したことが考えられるのは、適当なことであり、そのような考えに身を託するのは、あえて試みる価値のある事だと思う。
(中略)
その生涯において、肉体にかかわるもろもろの快楽や飾りを、自分とは異質的なもの、むしろ害をなすものとして、それらから離れ、
学ぶことの喜びに熱中し、魂を異質的なものによって飾りたてたりせず、
魂自身の輝き、つまり節制、正義、勇気、自由、真実などで飾り、
こうして運命の呼び声にこたえてハデスへ旅立つ日を待つ人は、自分自身の魂について、心を安んじてしかるべきだ。

君たちも、それから他の人々も、いつかそれぞれハデスへ旅立つ日がくるのだ。
だが私は、いまやすでに運命が呼んでいる、と悲劇の主人公なら言うところだろう。
それにもうそろそろ湯浴みに行く時刻だ。
湯浴みをしてから毒を飲んで、女たちに死体を洗う面倒をかけない方がいいだろうからね。」

ソクラテスは通常の状態では知りえないことを、このとおりだと言い切ることは、良識ある人間(普通一般の人々)にふさわしいことではないと言っています
しかし、人間の魂に関するソクラテス自身の考えに確信があるからこそ、このような考えに身を託することは、あえて試みる価値があることだと思う、と言っているのです。

ソクラテスは君たちも、それから他の人々も、(すべての人々が)いつかそれぞれハデスへ旅立つ日がくると言っています。
その日を安心して待つためには、自分の魂自身を輝きで飾るようにと説いています。
ソクラテスの言う魂自身の輝きとは、節制、正義、勇気、自由、真実などであるとしています。
それはソクラテスの説いた真実に(正しく)生きる道に通じているでしょう。
一方肉体にかかわる快楽や飾りは害をなすものとして、それらから離れる(執着しない)ようにと説いています。

『ソクラテス何か言っておく事はないかね、お子さんの事でも、その他の事でも。』というクリトンの言葉に対してソクラテスは言っています。
「いつも言っていることだけで、クリトン、別に事新しく言う事はない。
君たち自身を大切にしてくれさえすれば、たとえ今なにも約束してくれなくても、君たちは何をしていても、私にも、私の家の者たちにも、そして君たち自身にも、つくした事になるだろう。

だがもし、君たちが自分自身を大切にせず、現在や以前に話し合った道に従って生きる事をしないならば、たとえ君たちがいま、どんなに沢山のことを熱心に約束してくれたとしても、何にもならないのだ。」

ソクラテスは君たち自身を大切にして欲しいと言っています。
そしてそれは、今現在また以前に話し合ってきた道、その道に従って生きて欲しいと言っています。
それはソクラテスが最後を迎えようとするその時まで、何よりも大切なものとして人々に語ってきた道を示しているのです。
さらに、それはソクラテス自身が歩んできた真実への道を意味しているでしょう。

『その点は必ず実行するように努力しよう。
だが君の葬式はどんな風にしようか。』とのクリトンの言葉に対して、
ソクラテスは次のように言っています。

「好きなようにしてくれたまえ。
ただし君たちが私をつかまえて、私が君たちから逃げ出さないようにできるならばね。」

ソクラテスにとって、その人間の魂のあり方や、行方という一番大切なことについて思いをめぐらしている時に、その葬式(ソクラテスにとってはどちらでもよい事)を持ち出されて、次のように言っています。
ソクラテスは皆に微笑みながらつづけました
「ねえ君たち、どうも私には、私が今こうして話し合ったり、議論を一つ一つ整理しているソクラテスだという事を、クリトンに納得させる事が出来ないようだね。
彼(クリトン)は、もう少しすると、死体となっているそれを見て、それを私だと思う。
それで、私をどう葬ろうか、などとたずねるのだ。
私がさっきから長々と話してきたこと、 つまり私が毒を飲めば、
もう君たちのそばにはいないで、ここを去って、幸福な人々の幸せな国へ行くのだという事、これらの話は彼(クリトン)にとってどうも無駄だったようだね。
(中略)
君たちは、私が死んだら、必ずここにとどまらないで離れてゆく、ということを保証してもらいたいのだ。
そうすればクリトンが耐えやすくなるだろうし、
私の身体が焼かれたり、埋められたりするのを見ても、私自身がひどい目にあっているのだと思って、私のために悲しんだりはしないだろうし、
また葬式の時にも、ソクラテスを置くとか、運ぶとか、埋めるとか言わないだろうから。

いいかい、ねえクリトン、不正確な言葉を使う事は、それ自身好ましくないだけでなく、魂の中に一種の禍の種をまくものなのだ。
さあ元気を出して、私ではなく、私の身体を葬るのだといわなければいけない。
そして君のいいように、君が一番世間の風習に合っていると思うようにして葬ってくれたまえ。」


ソクラテスは、人は死んだら、通常、亡骸(死体)の中にはとどまっていないで、この世を去って (使命に導かれて生きてきたソクラテスの場合、ここを去って直ちに幸せな国へと) 離れて行くと言っています。
その強い信念を持っていたソクラテスであればこそ、このような状況においてもいつものように平常心で冷静な態度で過ごしているのです。(ソクラテスはその使命(信念)は様々な方法で神から授けられたと述べていました)

ソクラテスは家族をあらかじめ家に帰しています。
それについてはソクラテスは心静かに最後の時を迎えたいからとも言っていますが、ソクラテスは、普通の人間ではその状況に耐えられずにその心を深く傷めてしまう事を心配してもいたのです。
以前からその信念(ソクラテスの説いた哲学)を話し合っており、ソクラテスを相当に理解していると思われるクリトンに対しても、気づかいのある言葉を投げかけています。
ソクラテスの優しい思いやりは、クリトンが耐えやすくなるようにと言う言葉に表れています。
ソクラテスは、友人クリトンのために、ていねいに優しく答えています。
その葬式は、ソクラテスの身体(亡骸)を葬るのだと考えるように、亡骸を見ても決してソクラテス本人だとは思わないように、ソクラテス本人の為に悲しむ事のないように、そしてクリトンのいいように葬ってくれるように、と言っています。
いよいよ最後のとき、ソクラテスは、毒の渡し役から盃を落ち着いて受け取りました。

「この飲み物を、少しばかり、神様に捧げるのに使うのはどうだろうか。
かまわないかね、それとも駄目だろうか。」

ソクラテスにとって、この時においても一番大切である神様に、その飲み物を捧げたいと考えたのです。
しかし、それは適いませんでした。
『ソクラテス、私たちは、丁度飲むのに適当だと思う量だけしかすりつぶさないのです。』その男が答えると、ソクラテスは次のように言います。

「分かった。だが神様に祈りを捧げることだけなら、許されるだろうし、またしなければならない。この世からあの世への旅が幸せであるようにとね。
これが私の祈りだ。どうかかなえられますように。」

ソクラテスは大切な神様への祈りを捧げました。
それは、あの世への旅路が幸せでありますように、というものでした。
そして、ソクラテスはその飲み物を無造作にうまそうに飲みほしました。
ソクラテスは決して自ら毒を飲んだのではなく(自殺ではなく)
彼を正しく理解できなかった人々の不当な審判により刑死を受けたのです。

しかし、ソクラテスは信念を持っていたのです、それは次ページ(ソクラテスの哲学)で取り上げ研究を進める「ソクラテスの弁明」においてソクラテスが述べているように、この時この世に残る人々とあの世に往くソクラテスとのどちらが幸せであるかは、まさに神様が知っているのみであったのです。
友人や弟子たちが涙を流したり泣き出したりするのを見て、ソクラテスが語りかけます。

「なんということをするのだ。
あきれた人たちだね。
私が女たちを家に帰したのも、こういう間違いをおかさないようにという心づかいからだったのだ。
なぜなら、人は心静かに死ぬべきだと聞いているものだから。
さあ落ち着いて、くじけないでいてくれたまえ。」

以上パイドンより抜粋
ソクラテスは皆に頼んでいます。
それは落ち着いていてほしいというものでした。
ソクラテスは死の瞬間が来るまで落ち着いていました。
その様子はその道(ソクラテスにとっての哲学)を信じ、それを人々に説くことを自らの使命と知り、その道を信念を持って生き抜いた人の最後に相応しいものであったのです。
ソクラテスは、係りから聞いたように、あちこち歩きまわり、足が重くなると横になり、静かにあの世(ソクラテスを待つ幸せな国)に旅立ったのです。
 

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